見える

2012年1月1日 22:36:27

見えすぎる、ということが、ひどく客観的にわかる。
いや、感じる、という言い方の方が正確か。
見える、という理解と、見えすぎるという感覚。

見えると見えすぎるの間に横たわる暗く深い断絶。
見えるのは楽しい。わくわくする。希望と光がある。具体と作品がある。
だが、見えすぎる場所には、そんなものがない。

そこにあるのは、作品が崩れ去る直前の咆哮であり、また
結論付けられた運命の絶望であり、言葉の限界知らずの果てであり、また、
色も香りも線も音も光も何もかもが一つ鍋にあり、統合への嘔吐感。

何が見えるのか、何が見えすぎるのか。
それは、もちろん作品だ。舞台の上における表現だ。言葉だ。
見える、見えすぎると言っても、それは、全部言葉だ。

画が、舞台が、俳優が、音声が、音楽が、観客が、時間が、
何もかもが、言葉で見える。そう、見える間は、楽しいんだけど。
見えすぎるんだ。吐き気がする。恐怖ばかりが先に立つ。

そりゃそうか。運命の決まった人生の何が楽しいか。
恐怖。そう、恐怖。明日があることへの恐怖。
表現され、それが、世界のただなかに置き去りにされ、時間を観る恐怖。

見えすぎるんだ。
見えすぎるんだ。
くそっ、舌打ちばかりだ。

困ったことに、目を閉じても消えはしない。
目を閉じれば閉じるほど、鮮明に言葉が色彩を得る。
全ての形という形が言葉で見える。困ったもんだ。

3月の舞台、どころではない。その先の舞台という舞台。
ぼくが創ろうとする舞台だけではなく、この先上演されるだろう
様々な舞台の何もかもが、頭の中になだれ込んでくる。

一瞬の出来事だ。瞬き一つの間それらが全部流れ込み、認識し、読み、理解し、
そして、その先の再構築と崩壊の軌跡を目の当たりにする。
怖い。恐怖。

舞台を創る理想。そこに向かってみようか。
ゼロからの出発だな。まあいいや、どうせ今年は敵ばかりつくるだろう。
疎まれ、付き合いも少なくなるだろう。

なるほど。現実の世界がそうなれば、理想には近づくのかもしれない。
ゼロからか。そして、一人で、いや、違うな。
一人、という、ぼくからの出発じゃないのか。

ぼくのいない場所、誰もいない場所から、ぼくが出発するのか。
ぼくがそこにいなくて、ぼくがそこから出発するという背反をクリアできるだろうか。
多分、できる。できるだろうな。それが、表現という場力だ。

それにしても見えすぎるなあ・・・