作品を自分以外の他者に発表するということの意味或いは価値

2012年3月29日 21:51:37

高校演劇からもう30年近く演劇という出来事に関わって来た。
10代、20代、30代、40代、と、その都度、考えていた。
なぜ、作品を発表するのだろうか。
それは、絵画にしても、音楽にしても、思想にしても、舞台にしても、
なぜ、人は、自らが自らに関わり、それを創り、自分以外の他者に
見せようと、聞かせようと、するのだろうか。

10代の頃には、その年齢に相応しい考え方を自身、していたように思う。
20代の頃には、それなりの、30代にもそれなりの。

何かを創り、発表する、ということに意味があるのか。
そこに価値はあるのか。
今、ぼくも、作品を創っている。それを約束に日に発表している。

そして

今も考える。その意味するところは? と。

演劇は、一人で創るものだ、という持論は、まさにそこだ。

一人。

ずっとそんなことを書いてきた。話してきた。一人だ、と。
一人で創る、ということが、多くの誤解を生んできたし、
不必要な波紋も広げたりもした。
その都度、それを丁寧に説明する義務はない、とぼく自身思っているのだが、

それを許してくれないなにやらわけのわからない「世間」を持ち出し、
権利を振りかざされたりもした。

一人で創る。今だってそうだ。一人だ。
なんだかんだ言っても、ぼくは一人だ。
どこにどんな問題が起きようと、ぼくは一人だ。
ぼくは、決して二人ではない。
「私」が「二人」だったり、「三人」だったりするから、
つまらないものばかりが創られるんだ。

いつだって一人だ。

おしゃべりなのに、誰とも話したくはない。
寂しがり屋なのに、誰にも会いたくはない。

おかしなもんだ。
一人って。