ぼくは、一つの出来事にすぎない

2012年6月9日 23:15:23

文字は人を殺す

旧約聖書は、そう言い切っている。
旧約聖書というか、パウロが、だが。

なるほど。
それにしても、なぜ「文字」であって、「言葉」ではないのだろう。
聖書の言葉は、いくつもの言語の介在と翻訳があり、
今、ぼくは日本語で読む。
そのいくつもの言語が介在することによって、
長い時間の間に、「言葉」が、「文字」に置き換えられたのではないだろうか。

いや、そんなことはないだろう。
内外の高名な研究者が生涯をかけ、また研究を次代に引き継ぎながらの結果だ。

「言葉」ではなく「文字」、か。

言葉は人を殺す

と、言われれば、多くの人が納得するだろう。
想像することもできるし、経験的にも理解できる。
だが、

文字は人を殺す、だ。

それはさておき、
ぼくは今も空に手を伸ばしている。
伸ばし過ぎて、体のあちこちに痛みを覚える。
伸ばす姿をあちこちに見せすぎて、どんどん付き合いが失われていく。
あまりの虚しさにこの手を降ろしたくもなる。
だが、手にした拳銃。

「山守さん、弾はまだ残っとるがよう・・・」

文太の声が聞こえるんだ。
そうだ、まだ弾は残っている。ぼくは、一つの出来事にすぎない。
空に照準を合わせ続ける一つの機関にすぎない。
ぼくの言葉は、その照準する機関の発する記号にすぎない。
そこに意味を含ませ読むことがまた一つの現象だとするならば、
その現象の姿は、青白い炎となって顕れるだろう。

言葉を追い続けながら、
言葉と闘いながら、長い時間をかけてようやくひとつの機関を組み上げた。

実を言うと、組み上げてしまい、そのことにもう飽きてもいるのだが、
発射される弾の行方を見定めることは、機関を作動させる責任者としての責任だろう。
そのくらいのモラルは、ある。

脚本を書いている、と書いてきた。
そして、脚本を書くことはやめた。ぼくは演劇を書く、と書いてきた。
そして、演劇は終わったと書き、ぼくは言葉と闘う、と書いてきた。
6年間にわたる「高木ごっこ」のあちこちを読み返すと、
なるほど、思考遍歴がよくわかる。

夕方から、漠然とした不安と恐怖に背中を押されながら、
ぼくの予感が外れることを祈りながら、
ほつほつと「高木ごっこ」を読み返したりした。

安心した。ぶれちゃいない。
思考的発展が確かに認められるが、ぶれてはいなかった。

ぼくの予言は当たるんだよ、君。

「そっちとは飲まん。死んだもんに済まんけんのう」

また文太の声だ。

ぼくたちは死者と生者のクロスポイントに「在る」ただの記号だ。
そのクロスポイントで右往左往する出来事の連続にすぎない。
それなのに、

死ぬことをやいやい言い、
生きることをわいわい騒ぎ、

行き詰まるわけだ。それでも、空に手を伸ばしている。
突破口は、次元認識にしかないのかもしれない。
三次元で、あるいは四次元という座標軸には、突破口を見いだせないのかもしれない。
10次元、或いは11次元という認識を持ち出さなければ、

ぼくの手がどこにあるのか、指し示すことができないのかもしれない。
いろんな座標を試してみたのだが、どうにもうまくいかない。
そういえば、こんな思考も、ここにこうして書くことで育まれた。

今日は、これから、

5次元以上の観察でもしてみようか。