次の作品を発表するための稽古が始まった

2012年7月16日 22:10:17

先日、その稽古の初日を迎え、
出演する、と、名乗りをあげた俳優が稽古場に集まった。
配役は、描き始める前に「何故か」決まっていた。
ぼくの頭の中のどこかがそれを決めたのだろうが、自覚は、ない。

10人の俳優。10の配役。唯一、

描き始めてから変更された役(というか、概念)がある。
それは、
この作品に出演している磯崎いなほが以前出演したパフォーマンスライブを見たからだ。
あのライブを見て、100号キャンバスが1000号になった。
確かにそんな感じだ。
その広がりを描くためには、一人の役をまったく一から描き直さなければならなかった。

描き直した。
けれども、最後の筆までは入れていない。
その筆を入れるのは、稽古場だ。俳優自身だ。
自覚的にしろ、無自覚的にしろ、俳優自身だ。
1000号キャンバスのあちこちに空白があるとしたら、それは俳優の貧しさだ。

撃つことだけがプログラムされた一つの機関に
貧しさを照準する機能は備えられていない。
照準されるものは常に、色彩豊かな、豊かさだけだ。

この作品をどうするか、どうななるか、なんて知ったこっちゃない。
ぼくは演出家ではない。ぼくは脚本家ではない。
ぼくは美術家ではない。ぼくは作曲家ではない。
ぼくは、照準し、撃つことをプログラムされた一つの機関にすぎない。

責任逃れでもなんでもない。
そも、責任など、どこにあるというのか。
「責任」という語を軽々しく使ってきたのも、大海知らずの30年。

負うべき責任など、どこにもない。
それを重く感じるのは、思い上がり以外何者でもない。
では、作品の完成(ある一定のと添えてもいいが)は、誰に委ねられるのか。
決まりきったこと。
この手だ。
この指だ。
責任は一切ないが、作品の一切はこの手の中にある。