読んだり、書いたり、話したり

2012年10月2日 23:15:56

なんだかんだと毎日毎日言葉と過ごしている。
本を読むと言うが、それは言葉を読んでいるのであり、
ものを書くと言うが、それは言葉を書いているのであり、
話す聞くと言うが、それは言葉を話し、言葉を聞いているのであり、
もちろん、そこに表現或いは内現され、感覚されるものは、
それらの「行間」であったり、「一服の煙草の煙」であったり、
彼の「瞬き」であったり、「沈黙」であったり、

そうあったりするのだろうが、
それら感覚もやっぱり言葉で認識され、処理される。
その言葉での認識と処理を突破しようと、
音楽だの舞台作品だの絵画だの恋愛だの情愛だのなんかそんなものがあり
そんなものに関わりながら逃げながらうろうろするのが或いは人の本能なのかも、と。

それはさておき、
毎日なんだかんだと言葉をあれこれしている。

かっこつけて言えば、言語活動をしているわけだ。
言語活動、という一語を書けば、やっぱりヘーゲルを思い浮かべる。
「精神現象学」だ。その第一章。有名な一文。

言語活動の限界は常に言語活動の内部にあってもたらされるものであり、
常にすでに言語活動のうちに否定的なものとして含まれているのだ。

断定にすぎないか! ヘーゲル! と突っ込みたくもなるが、
言わんとすることはとてもわかる。
それに、この断定的な物言いがヘーゲルの文章を読みやすくしてもいるんだろう。
ヘーゲルの元気あふれる文章。覇気と勢いに言葉を任せ野放図ともいえるリズムと躍動。
だからヘーゲルは面白い。音読すると特に面白い、

話は、ヘーゲルじゃないんだった。
言語活動の話だ。

毎日、言葉を使ってあれこれしているなあ、と思い考え、
言語活動という言葉からヘーゲルを思い、楽しくなり、言語活動を考えている。

10月、という季節だからなのか、
それとも、その10月がどうやら予定がいっぱいですでに嫌気がさしているからか、
それとも、嫌気がさしたところできっとそれらをこなしている自分を予感しているからか、

言語活動、という一語に対するアプローチがこれまでの10月と違うな、と自分で思っている。

例えば、こんなのはどうだろう。

言語活動は、言いたいと思っていることをそのまま反転させて、
何か別のものに変えてしまい、
言語に表現することのできないものにしてしまうという、
神にもふさわしい天性をもっている。