考える、と言うあなたは、何を考えているのだろうか。そして、悲劇の時代の足音を聞く

2014年6月6日 00:25:45

世界に害を加えないのが芸術だとする定義もある

そうだとするならば、芸術の仕事はこの世界になにを加えるのだろう

発表される作品には高さがある

その高さで生きようと、或いは死のうとする者を作品は描くのだ

その高さに立ち作品と共に死ぬほど、或いは生きるほどに

俳優は、或いは、絵の具は、或いは印画紙は、或いはフィルムは、或いは言葉は

作品を自らのを肉体とするのだ

その定義においてのみ作品はそれらを要請するのだ

その要請もなく作品に関わるなど無礼以外にない

そんな彼らはいずれ審判の前に立たされるはずだ

残酷な時代だ

作品を創る作家にとって鑑賞者を泣かせるという感情の操作は暗黙的禁じ手ではなかったか

なぜ現代はそれを臆面もなくやってみせるのか

それが時代というならば、なんて残酷な時代だろう

残酷な時代か

感情論において、或いは個人的感情で作品にたずさわり

また作品を創ることを正当化する者ばかりの時代

愛の不可能性を正当化的に問題とする現代の作品は一つの悲劇ではないか

作品と良心との悲劇的な矛盾

同時に生に対する愛と死の抗議の高さの矛盾

作品の高さを知る者にとって

良心や愛の矛盾を克服することは論理的に不可能なのだ

その不可能性は、破綻をしか導かない

ぼくにとって世界は敵対する論理ではなかった

同時に作品もそうだ

夢想家だとの非難はその通りだ

今も(何故か)世界に作品が必要とされているように

夢想家もいなくてはならない

その役割を引き受けよう

なぜなら、あなたは、あまりに取るに足らない概念でしかないのだから

あなたが「考える」と言うとき

あなたは、正しく疑っているのか

考えると疑うは同義のはずではなかったのか