作品は発表されるために創られるのか、それとも、創られた作品が発表されるのか

2014年9月15日 01:10:44

結局そこに行きつくじゃないか!
決定的な構造的矛盾

ゴッホの生前には一枚しか絵が売れなかったと言われる
けれども、彼は生涯を賭けて、作品を描き続けた
例えば、そんな舞台作品があるだろうか
発表される場もなくただひたすらに稽古をし続け、創り続け、
出来上がり、また次の作品に取り組む
生前発表されることもなくただ舞台作品が創り続けられる、ということが
そんなことがあるだろうか、あっただろうか
もちろん、舞台作品は、「舞台」という「場」があって、
そこで照明だの美術だの音響だのという「手」が加わり一つの完成を見る、
ということはわかっている
わかっているけれども、問いたいのだ
劇場が決まり、スケジュールが決まり、「発表」ということにたいして
日時が約束され、それを違えることができない作品という存在
わかっている
それが、「舞台作品」の条件の一つであることも
それでも、

それでも問いたいのだ
発表されることが約束された作品というものが一体なんなのか
多くの演出家や脚本家や制作者や俳優やそんな舞台に関わる人たちは、
きっと、その最低条件は当たり前だとして、そこから何かの価値を生もうとしている
きっとそうだろう
だから、創りたい作品があれば、
劇場を予約し、スタッフのスケジュールを押さえ、俳優と契約し、
発表と言う約束された日時に向かってカウントダウンするのだ
今のぼくがまさにそうだ
それ以外の方法は今のところ、ない
いや、ないことはない!

作品を創り、発表するに値するものになれば、発表すればいい
それが、発表に値しなければ、そのまま棄て去ればいい
そんな方法は、ある
簡単だ
なぜ、それができないのだろう
そこにどれだけの「作品に対してのデメリット」があるだろうか
もちろん、対人関係においては多くの不具合があることはわかっている
そんなことは、一人一人ときちんと話せば、
いや、話す以前にその作品を彼らの目に見せてやれば、その価値はわかる

演劇という言葉、芝居という言葉、それを使わないと決めて数年経った
ようやく次の具体的行動に入って行けるような気がしている
作品創造に対する姿勢だ
まず、脚本はいらないと思っている
実際にもう書いてはいない
稽古場で俳優は、不満をこぼすかもしれない
しかし、理想とする真の「作品」であるためには必要な時期なのかもしれない
脚本がなくなり、そしてこれまで「稽古」と言っていた「何か」がなくなり、
約束された時間もなくなり、ただ、
見たいものが創られるまで、観たいものが現れるまで、それに一人で向かう
まさに画家の所業ではないか
きっとその頃には、周りには誰もいないだろう
いつだかに予言したようにたった一人でぼくは稽古場をその命としているだろう
その時に仮にそこにぼく以外の命があるとするならば
きっと驚くほどの発色をし、ぼく以上に作品と向き合い、作品と同化し、
何かを捨てているだろう

あの台詞を思い出す

テメェら家付きメシ付きの一生を人生だと思ってんだろ?
そんな保険のお陰でこの女が自分の女か他人の女か見分けもつかねぇようになってんだよ、
テメェらに出来るのは長生きだけだ、クソ垂れて我慢して生きてるだけだ

勝って帰ったら、ケツでも触ってやるか