鈴木邦男という質量・・・原稿を処理しながらも、離れないあの一言。

2007年12月26日 02:15:38

写真

積み上げられた書籍の山。
これは、『現代日本思想大系』全35巻。
自宅に届いた日から、ページが開かれる日を今かと、
待っている。

これらの本を読むきっかけとなった
鈴木邦男さん。

お会いするといつも感じる、その質量。
質量、としかいいようがない、質量。

今日は、コトバのかわいい写真が撮れたので、
ふくろうの記事を書こうと思っていたのだけど、
コンブさんとメールのやり取りをしているうちに、

気が変わった。

鈴木邦男という質量。
初めてお会いしたのは、
実は15年も前のこと。
大塚のある居酒屋でご挨拶をさせていただき、
なんだか要領の得ない右翼の話をした。
鈴木さんは、多分忘れているだろう。

もちろん、鈴木さんの著書は読んでいて、
意味深な締めに、
その時も(もっと話したいなあ)と思った。

2007年が、12月。

お会いするといつも感じる質量。
それは、なんだろうか。
質量、単純に重さ、ではない。
鈴木邦男という人格、
或は人生の慣性の重さだ。

その証拠に、鈴木邦男慣性の重量は、
重力を発生させているではないか。
その重力にとらわれて、こうして本を開く一人の自分が居るではないか。
相対性理論では、質量はエネルギの一つともされる。
まさにそうだ。エネルギ。

鈴木さんが読んできた本には、何が書かれていたのだろう。
鈴木さんが経験してきたことを再び経験できるだろうか。
時代が変わっていき、その中で、再び再生する経験があるだろうか。
鈴木さんが書いてきた無数の文字に嫉妬する、その果てに何かがあるのだろうか。

と、何を比較しても、何を詰めても、
解はでない。

それはそうだ。
時代が違う、生活が違う、自己が違う、
そして、自分は高木尋士。

にこにこと笑い話す鈴木さんの目が、
刹那、恐ろしく光る、時が、ある。
それは、本当に瞬間なのだけど、
確かな恐怖。

そんな目を何度見ただろうか。
鈴木邦男という質量。
重力を発生させる。
こうやって巨大な書物の山を目の前にしても
物怖じせずに笑っていられる自分も
その重力場の中。