自同律の不快

2008年5月4日 23:08:10

埴谷雄高がそう言った。
それは、知っている。
知っていて、こうやって使っている。
自同律の不快。
いつだったか、ぼくは夢を見た。
その夢は、びっくりするくらいの大きさだった。

ぼくは、隠れている。
隠れていることを知られないように、
怯えている。
隠れているのは、室内。
その小さな部屋には、扉が一つ。
足音が近づいたり遠のいたりする。
そのたびに恐怖に震える。
そのときに求めるのは、
神様でもない。
仏様でもない。
母でもない。
足音が近づいたり遠のいたりする。
隠れている部屋の扉の前を通り過ぎる。
怯えている。
歯を食いしばって。
ゆっくりと息をして、
足音に耳を凝らす。
「誰か」と祈ることが不毛だと分かっている閉塞。
あの足音がこの扉の前に立ち止まったとき、
ぼくは、

ゆっくりと息をする。
自分が吐く息の中に、自分の本体が混ざっていることに気がつき始める。
少しずつ、恐怖に駆られ、自分が抜けていく。
一息ごとに自分が吐き出されていく。
分裂と融合を繰り返す目の前の気体。

自分が外部から証明されようとしている。
足音が近づいてくる。
時間が無い。
多分、この足音が最後だ。
近づいてくる。
扉の前で足音が、止まる。
扉が、開く。

差し込む光と恐怖。
息がとまる。
目を閉じる。
光に包まれる。
恐怖の本体は、これだ。

光だ。

声がする。
何を言っているのか判別できないけれども、
あちこちから声がする。
聴いたことが無いけれども、自分の声だ。
ぼくは、祈る。
生きていてください。
自分の生命に対して祈ったのか、
自分以外の全ての生命に対して祈ったのか、
光の中で、祈る自分。

閉ざされていた部屋は、差し込まれた光のせいか、
壁がなくなっている。
ただ、

ただ空間があるだけ。
それとも、ぼくが壁を認識できないほどに小さくなったのか。
光だけがある。
光には音がある。
光には熱がある。
光には顔がある。
光には恐怖と安心がある。
光には客体がある。
光には、なにもかもある。
と、思った。
思ったけれども、違うかもしれない。
目を閉じているぼくは、まぶたを通してその光をしる。
目を閉じて、祈っている。

あの声が、聞こえなくなるまで。

夢は、あまり大きく、目を覚ますと呆然としているぼくを知る。
いつだったかそんな夢を見た。
そんな夢を見たことを、思い出した。
真夜中の城北公園。
自宅から直線距離で800m。
夜の城北公園には、生命があった。
確かな確かな生命があった。

自同律の不快。
その不快から逃れようと、ゆっくりと息をする。
5月の東京にその息は、なにがしかの影響を与えるだろうか。

祈りの声がする。
それは、確かにぼくの声だ。