東京吉原・キモノスイッチ
2010年12月18日 13:12:55
先日、キモノスイッチに伺った。
見沢さんの遺した反物を仕立てるためだ。ということをここに書いた。
書いたら、それを読んだ方からメールをいただいた。
「吉原」って今はないですよね?! と。
そう。
今は、「吉原」という地名は残ってない。
残ってないのに、これほどの「地名」はまたとないんじゃないか。
その一言でどれだけのイメージや郷愁や歴史や寂しさを思い起こさせる地名か。
今はない地名。そんな地名は、全国にたくさんあるはずだ。
長い歴史の中で行政区画は驚くほど変化してきた。江戸から明治。明治から大正。
その革命的躍動の中で日本は、たくさんの地名を失った。
そして、昭和から平成。町村合併に整理整頓。
いろんな理由で名前が失われてきた。
でも、吉原、という地名は、意識的に、為政者によって消された気がする。
気がする、というのは、ぼくが吉原に抱くイメージによるものだ。
数年前に浅田次郎原作『天切り松 闇語り』を舞台化した時に、当時の吉原遊郭についてかなり詳しく調べた。
その時に見聞したイメージがぼくにそう思わせている。
寂しさの饗宴。
たくさんの言葉が思い浮かぶ。
太夫、花魁、やり手婆あに引手茶屋、明暦の大火、遊女投げ込み浄閑寺、振袖新造に畜生道・・・
そんないろんな言葉はぼくの個人的主体的なイメージで頭に染色されていく。
寂しさの饗宴。
あの日、あの頃、吉原にはどんな時間が流れていたのだろう。
今ぼくが感じる時間と同じ時間が流れていたんだろうか。
とはいえ、吉原は当時の流行を最先端に発信していたという。
そりゃそうだ。遊びの本丸。消費の先っぽ。男と女のあの手この手のあれやこれや。
真っ先のファッションが生まれるはずだ。
それも今の青山原宿六本木、山の手、台場なんかとは全く違うぎりぎりの伊達が発信されたんじゃないか。
お前を抱けるなら、この腕一本くれてやる!
そんなファッションが、そんな時間の中で、生まれていたんだろう。
そう。「吉原」という地名はない。
ないけれども、先日、「吉原にある」キモノスイッチに芝崎るみさんに会いに行った。
写真は、見沢さんの下駄を持つ芝崎さんと一目惚れした真っ赤な履物を持つぼく。
身に着けるもので、これほど強く一目惚れしたことは未だかつてない。
この真っ赤な草履を履くためだけに、上を全て揃えてもいいと思っている。
この真っ赤な草履を履くために、一枚の着物を描いてほしいと思っている。
RumiRockが描き出す一枚は・・・と一人夢想するのも、夜中、楽しい。
そう。「吉原」という地名は、今はない。
キモノスイッチに伺ったら、店長のかねこさんが、
あそこが「お歯黒どぶ」、ここが「通り」と教えてくれた。
キモノスイッチを出ての帰り道、吉原神社にお参りした。
帰ったら、『吉原炎上』を観ようかな、と思った。